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Topics2009 | 齋藤清メッセージ | 卓球の足跡(池田健) | 編集部-大会レポート | Backnumber '08 | '07 | '06 | '05



「卓球 私の足跡」

池田健氏からのメッセージ


 小学6年生のとき、全日本選手権ホープスの部優勝、アジアジュニア選手権第2位と輝かしい成績を残しました。現在、北海道で高校の教員をなさっています。今回いただいた寄稿は、小学校時代に経験した合宿や国際大会の様子など非常に参考になる内容です。


  私は現在北海道大成高校で数学の教員をしている。教員になって6年目になるが、昨年からは地元の卓球少年団の活動をお手伝いし、小学生や中学生とともに汗を流している。

 卓球を始めたのは小学校に入学する半年前である。自宅に卓球台があり、兄が卓球の少年団に入るということで毎日練習していたのを見て、自分もやりたくなり兄の練習が終わってから、父に教えてもらったのがきっかけである。小学校に入学したころにはラリーが500回余り続き、卓球に楽しみを覚えてきた。ちょうどその年から小学生低学年の部(ミニ・ホープス)の大会が開催されることになった。運よく地区大会、県大会で優勝し、全国大会へ出場することができた。本来城北スポーツ少年団への入団は小学4年生からであったが、指導員の本間清治さんのご好意で、2年生から練習や試合に出場させていただいた。さらに5年生からは金丸卓球クラブにもお世話になり腕を磨いた。

 小学6年生のとき。岐阜県で行われた平成元年度全日本選手権ホープスの部に出場した。県大会は1位で通過したものの、前年度2回戦で敗退したのでノーシードとなり、組み合わせは相当厳しい場所に置かれた。特に4回戦で優勝候補筆頭の選手と対戦することがわかり、試合前から相当ショックを受けた。しかし、「負けてもともと思いきってやろう」と戦ったのが好結果につながった。接戦の連続であったが、見事優勝することができた。

 優勝から2,3日後。12月にインドのニューデリーで行われるアジアジュニア選手権の代表という連絡が入った。そのためすぐに京都で行われる強化合宿に参加することになった。


【合宿で屈辱の3連敗】

 この合宿は京都の東山高校で行われた。小学生から高校生までの代表男子6名、女子6名が集まったその合宿はとても内容が濃く、2日目から全身筋肉痛だった。普段は決まっているようなボールも決まらず、今までにとったことのないサーブや威力のあるボールを受けることの連続だった。

 試合をしてもほとんど勝つことはできなかった。唯一勝てる、勝たなければいけないと思っていた女子ホープスの代表選手(戦型:カット)に3連敗した時には落ち込んだ。ドライブやスマッシュを打っても打っても決まらず、ツッツキでつなげば反撃をくらい、終始リードされ、結局1セットも奪えなかった。何度やっても勝てそうにない。悔しくて情けなくて体育館の裏で泣いた。

 この合宿では卓球の練習以外にもマッサージの仕方や卓球に対する心構えについてのミーティングも行われた。そのミーティングのなかで監督が「態度がかわれば習慣が変わり、習慣が変われば結果が変わり、結果が変われば人生が変わる」と言っていたのが印象に残っている。そのときは、なんとなく聞いていたが、卓球に対する気持ちや心がけ一つで目標を達成することができるということを言いたかったのではと最近考える。


--- アジアジュニア選手権の思い出---

【ニューデリーは】 

 ホテルから試合会場まではタクシーで移動。ホテルの玄関でタクシーを待っていると全く知らないインド人女性が“あいのり”してきた。たまたま行き先が同じという理由で。さらに会場に向かうタクシーは途中ガソリンスタンドに立ち寄った。「商売なんだからガソリンくらい入れておくのが・・・」と思ったが、そのガソリン代まで請求されるとは予想外だった。たぶん日本人だからかな?

 信号待ちをしていると開いている窓から黒っぽい手が入ってきた。物乞いをする少年だった。貧富の差の激しいインドではこうした少年や少女が多く、幼いころから学校に行けずに働いている。実際に靴を磨く、耳の掃除、作った装飾品を売るそういった人たちを目の当たりにした。


【国際交流ができた】

 会場にはさまざまな国の人たちがいた。その中で中国の選手とは交流することができた。1歳年上の孔令輝や劉国梁とはいろんな話をした。その手段だが私が中国語を話せるわけではないので、どうしたらコミュニケーションがとれるか考えた。ひょっとして漢字なら意味が通じると考え、ボールペンで手のひらに漢字を書いた。

「誰、最強、中国」とか「練習、何時間」など。書いた文字をこの2人に見せると、自分の手に回答を書き出した。意味が通じた。異国の人と自分の知識だけでコミュニケーションを取れたことに感動した。普段、何げなく話している会話も熟語だけで意外と表すことができた。調子に乗っていろいろなことを話した。

 その中でこの2人に私は分数の問題を出した。大変失礼な話だが、ナショナルチームで卓球ばかりやっていて、勉強はあまり得意ではないと思ったから。しかし、問題を見せると2人はすらすら解き全問正解した。卓球の練習だけでなく、勉強の時間というのもあると言っていた。

 このとき、この2人が後に世界選手権やオリンピックでチャンピオンになるとは思いもしなかったが・・・


【現地の水】

 「現地の水だけは絶対口にしないように」と選手団の団長から言われていた。そのため大量のミネラルウオーターが部屋にストックされていた。ホテルの部屋ではそのミネラルウオーターを使用したが、大会が終わり出発する空港で「最後くらい大丈夫」という気持ちでレストランで出された水を飲んだ。これが悲劇の始まりだった。帰国後、食事してはトイレへ駆け込むということが2週間くらい続いた。


【試合の結果】

 ホープスの部で2位になった。思い出に残る試合は準決勝での逆転勝利だった。セットカウント1−1。得点は13−18。後がない状況で何か流れがかわるようなことが起きないか、願った。そうすると背中につけたゼッケンの安全ピンがはずれ、試合が中断した。その外れた安全ピンを審判につけてもらい試合再開。この小さな出来事が流れを私に呼び込んだ。

20−20。なんとか追いついた。そして21−20。マッチポイントを握った。最後はレシーブから思い切ってスマッシュ。ノータッチで決まった。監督にあの場面でスマッシュできるのはすごいと褒められたが、おそらくまだ勝負の怖さを知らなかったからできたプレーだと思う。


【印象に残ったあの試合】

 カデットの部の決勝は孔令輝対遊澤さん(現:東京アート、サウスポー)。遊澤さんとは一番年齢が近いということでよく練習してもらったが、その反応の速さや正確性に私は全く歯がたたなかった。その遊澤さんを応援するためベンチに入った。試合は孔令輝の一方的な展開になった。特に遊澤さんのサウスポー特有のロングサーブ(右利きの選手のバックに深く早く来る)に対して孔令輝のすばやい回り込みには衝撃をうけた。サウスポーのサーブは見づらく、逆をつかれることを考えたら回りこめなくなっても不思議ではない。あらためて上には上がいることを実感した。


 この大会へ出場できたのも日ごろから指導していただいた先生方、練習相手、応援してくださった関係者のおかげだと思う。

 自分のために努力し、結果を求めていた選手時代とは違い、今は指導する立場になり選手に対してどうやってやる気を出させ、伸ばすことができるか悩むことも多い。

 今回このような投稿の機会をいただき、少しでも自分の経験を知っていただきひとりひとりが「自分も頑張ればやれる、できる」とそんな気持ちになってくれればと思う。




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